1週間前の朝、僕はS織チャンと連れ立って宿を出た。その前日の晩に、「明日、一緒にインド・ビザの申請に行こう。」と約束していたからだ。僕も彼女もネパールの次に進む国はインドと決めていたのだが、これまでの中国やネパールと違って、インドはアライバル・ビザ(*注2)の取得ができない。だからインド大使館の存在するカトマンズでビザを事前取得する必要があったのだ。
僕等はタメルから歩いて大使館に行くことにした。二人だったからリクシャーを使ってもよかったのだが、大使館の開館まではまだ時間もあったから、歩いて行くことにしたのだ。今にして思えばこれが間違いの元だった。
インド大使館はカトマンズの中心部からは外れた所にある。僕等はガイドブックに掲載されていた地図を見ながら歩いていたのだが、それにもかかわらず道に迷ってしまったのだ。大使館周辺にいることは間違いないのだが、それらしい建物が見当たらない。ウロウロ歩いたあげく自分達で発見するのを放棄した僕等は英語の話せそうな通行人に声をかけ、大使館への道順を教えてもらったのだが、僕等が大使館に到着したときには、もう既に大使館は開館していた。
僕等は大使館の入口でノートに記帳し、金属探知機をくぐり抜けてビザ・セクションにむかう。大使館の中庭を歩いて窓口に行くと、そこにはビザを求める外国人達の長蛇の列ができていた。どう見ても50人以上はいるだろう。そのほとんどが欧米人のツーリストだったが、日本人の姿もちらほら見かけた。僕等は「ちょっと、来るのが遅かったなあ。」と思いながら列の一番後ろに並ぶ。道に迷った自分達が悪いのだが、この分だと僕等の順番が来るまでには少し時間がかかりそうだ。
受付を待つ列の最後尾に並び始めてから、どれだけの時間が経過しただろうか?列の長さはいっこうに縮まる気配を見せない。その理由は明白だった。ビザを求める人間は沢山いるのに、それを処理する窓口がひとつしかないからだ。雨季を終えたばかりのネパールは観光のハイ・シーズンではあったが、今年はマオイスト(*注3)の活動が顕著で、観光客は前年の6割減だと聞いている。にもかかわらず、これだけのツーリストが大使館に集まるのだから、普通に考えれば本来は窓口が2,3あってもいいはずだ。ところが現実には窓口はひとつだけで、実際にこんなにも混雑している。もし政情が安定している年にネパールを訪れていたら、もっと待たされることになっただろう。そうなったらとてもやっていられない。何故ならビザ・セクションは屋外にあって、この季節のネパールの日差しの下で何時間も立ち続けるのは、けっこうつらい作業なのだ。僕等の後ろに並んでいるイギリス人カップルなんて、もう干からびそうになっている。それでもせっかくここまで待ったのだからと思い、ミネラルウォーターを口に含んだり、ガイドブックで顔を扇いだりしながら我慢して順番を待ち続ける。そして僕等が窓口に辿り着いたときには、並び始めてから3時間が経過していた。あまりの暑さに僕等は既にぐったりしていた。なおかつ、少しイライラしていたかもしれない。
僕等が汗びっしょりの表情で申請用紙を提出すると、、簡単な面接が始まった。係官は黒い肌の、中年の太ったインド人男性だ。彼は涼しい顔で(窓口にはひさしがあるので陽が当たらない)僕等に対して質問を始めた。
「まず、彼女との関係は?」
「友達同士です。」
「しかし・・・友達同士だと言うが、君達の住所は全然違うじゃないか。」
係官は僕等が申請用紙に記入した日本でのアドレスを見ながら言った。確かに僕とS織チャンの住所は全然違うけれど、それにしてもよくチェックしている。でも僕等の個人的な交友関係がインド・ビザの取得と、どういう関係があるのだろう?
「中国を旅行しているときに知り合ったんですよ。」
僕は正直に答えた。
「なるほど。それで君達はいつ結婚するのかね?」
係官は何でもないように言った。
「結婚!?」
僕は驚いて、係官の顔を見た。ひょっとしたら彼がジョークを言っているのではないかと思ったからだ。しかし係官の黒い顔は、ジョークを言うときの表情ではなかった。それともインド人は真顔でジョークを言うのだろうか?
「僕等は恋人同士ではないので、結婚はしません。」
僕は我慢強く、そう答えた。どうしてこんなに男女関係に(それも他人の)こだわるのだろう?ひょっとしたらインドでは結婚する予定のない男女が一緒に旅行をするなどということは、ありえないことなのかもしれない。あるいはヒンドゥー教の経典には「愛し合っていない者同士、一緒に旅をしてはならない。」と書いてあるのかもしれない。
だいたいビザ申請時の面接といえば、入国予定時期とか所持金額とか、その国での滞在に関する内容について質問するのが普通だ。どうして結婚のハナシなんて持ち出さなくてはならないのか、さっぱりわからない。そろそろ、まともな質問な質問をしてほしい。
今にして思えば僕等が3時間も待つハメになったのは、「窓口がひとつしかない」とか、「ビザを求める外国人が多い」とかではなくて、この係官の個人的な性癖のせいではないだろうか?そうとしか思えない。こんなムダ話をしなければ、もっとスムーズに作業が流れるはずだ。僕がそんなことを考えていると、
「そうか・・・まあいい。それでは最後の質問になるが、君達はインドを愛しているのかね?(Do
you love India ?)」
係官は、まさにそれこそが「インド・ビザ申請における最重要事項」であるかのように、厳粛な面持ちで僕等に対して質問した。
・・・もう限界だ。いい加減にして欲しい。一体この質問の意図は何なのだ?「愛していません。」と答えたらビザを発行しないとでも言うつもりなのか?それならそれで構わない。バンコクでもどこでもいい、インド大使館のある別の都市に飛んでやる。そう思った僕が係官に答えようとしたところ、
「Of course! We love India!(もちろん!
私達、インドが大好きなんです!)」
僕が答えるよりも早く、S織チャンが答えた。彼女は笑顔で、とても愛想良く答えていた。彼女もかなりイライラしていたはずだったが、そんな素振りを全く見せなかった。でも、多分そのおかげで僕等の申請用紙は、何とか受理されることになった。僕はS織チャンに感謝しなくちゃいけないだろう。だって、インド人係官は彼女の答えにとても満足しているように見えたから。とにかく、結婚間近の日本人カップルはインドを愛しているおかげで、ビザを取得できないという最悪の事態を逃れることができたのだ。
僕等が手続きを終え、「やれやれ」といった表情で窓口を離れようとしたときに、係官は僕等の後ろに並んでいるツーリストに向かって、こう言った。
「時間になったので、今日の業務は終了する。」
僕等の後ろに並んでいたツーリスト達(10人くらいいた)は、あっけにとられた表情で、その係官を見つめていた。まるで空気の流れが止まったかのように、静寂があたりを包んだ。しかしそれは一瞬のことで、その半秒後には係官の言葉の意味を理解したツーリスト達は一斉に猛抗議を始めていた。
特に目の前で締め切られたイギリス人カップルは、さながら鬼神の形相で係官に抗議していた。無理もない。誰だって炎天下で何時間も待たされたあげくにそんなことを言われたら怒り狂いたくもなる。しかし、そのカップルに対して係官は堂々と言い放った。
「Time is time!」(時間は時間だ!)
僕等はイギリス人カップルに心から同情しながら、大使館を後にした・・・。
(*注1) 沈没
本来は旅行者であるはずのバックパッカーが、特に観光もせずにひとつの街にダラダラと長期滞在し続けることをいう。
(*注2) アライバル・ビザ
国境や空港などで、その国に到着した時に取得できるビザのこと。
(*注3) マオイスト
ネパールの反政府武装勢力。
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