イスタンブールのとある場所にパスポートと写真を持参し、そしてしかるべき料金を支払えば、たとえ学生でなくても学生証を手に入れることができるというハナシを、僕はこれまでの旅の途中で何度か耳にした。そういうことができる場所は世界にいくつかあって、イスタンブールの他にはユーラシア大陸ならブダペストとかバンコク、アフリカ大陸ならカイロやナイロビ、アメリカ大陸ならメキシコシティーで可能なのだそうだ。
学生でもない人間が身分を偽って学生証を所持するという行為は、もちろんれっきとした違法行為(よくわからないけどおそらく『経歴詐称』とか)なのだが、実際のところ手に入れることができる学生証は本物と比べても見分けがつかず、それが偽物であると露見することはまずありえないということで、多くのバックパッカーがこのまがい物の学生証を手に入れている。
彼等がそんなことをするのはひとえに節約のためである。国際学生証があると観光スポットで入場チケットを買う際に割引価格で購入できるのだ。少しでも出費を抑えて旅を続けたいと考えているバックパッカーが、この学生証を欲しがる理由は僕にもなんとなく理解できる。
イスタンブールの宿で知り合った日本人女性は、僕が国際学生証について悩んでいるのを知ると、親切にもいろいろと説明してくれた。特に学生証に記載する学校名についての彼女のハナシはなかなか興味深いものだった。彼女によれば、作成する学生証には自分の好きな学校名を印刷することができるのだそうだ。
「もし国際学生証を作るのなら、学校名は芸術系の大学にしたほうがいいわよ。『○○美術大学』とか『××工芸大学』みたいな。」
「なんで?」
「美術館とかのチケット売場で学生証を見せたときにね、普通の学生証だと入場料が割引にしかならないんだけど、芸術系の大学名が入った学生証を持っていると割引じゃなくて『無料』になるところがあるのよ。これってすごくお得でしょ?」
「でもどうしてそういうことになるのかな?どっちも同じ学生なのに。」
「それはつまりこういうことよ。一般の学生が美術館に行くのは単にレジャーとか余暇の一環として来ているだけだと理解されて割引にしかならないんだけど、芸術を学んでいる学生が美術館に行くっていうのはまあ言ってみれば『勉強しに来ている』と、解釈されるのよね。だからそういう学生に対しては入場料をタダにしてくれるの。」
彼女の説明に僕は思わず感心した。ただ彼女のその説明を聞いたあとでも、僕はすぐにも国際学生証を手に入れようと思ったりはしなかった。何故なら僕には自分が美術館を見学している風景を上手く想像できなかったのだ。
それというのも僕が普段から古典芸術にほとんど関心を示さない人間だからある。印象派絵画や浪漫主義文学に傾倒した事もなければ、バロック音楽やロココ式建築に興味を持ったこともない。そういう人間が海外で国際学生証を手にしたからといって、今後どれだけ美術館や博物館を見学することになるのか、自分でも甚だ疑問である。
そのことを彼女に言うと彼女は僕に、国際学生証の利用は何も観光スポットだけに限らないのよ、と答えた。彼女によれば国際学生証には外国人でもバスや列車の切符を割引価格で購入できるという利点もあるのだそうだ。だから国際学生証は、僕のようにあまり積極的に観光地を周らない旅行者にとっても有益なのだと、彼女は言った。
しかしながら、彼女にそう言われてもまだ僕には踏ん切りがつかなかった。なぜなら国際学生証を買うという行為は、僕にとってもっと大きな意味を持っていたからだった。
ちょうどトルコに入国した頃からだろうか。僕はイスタンブールへ進む途中でしばしば、「旅の終わりはどこになるのだろうか?」ということについて考えるようになった。僕がそんなことを考えるようになったのは、おそらく自分が今までに出会ってきた旅行者に影響されたことよるのではないかと思う。彼等のなかにはアジアの東端 ― 上海や香港、あるいはシンガポールから旅を始め、そしてイスタンブールで旅を終わりにするというバックパッカーが幾人かいた。そして彼等の口から僕が時々耳にしたのは「アジア横断」という言葉だった。
人々から『アジアとヨーロッパの境目』と形容されるイスタンブールは、確かにアジアの西端と言ってさしつかえない場所だと思う。そしてアジアの東端から旅を始めたバックパッカー達が西端であるイスタンブールで「アジア横断」を完成させ、そしてそのまま旅を終わらせようとするのも、ごく自然なことのように見える。
だから僕も彼等と同じようイスタンブールで旅を終えてもいいんじゃないかと、思うようになった。僕は終わりの無い旅をしているわけではない。僕は確かに予定も目的も無い旅を続けているが、その一点だけはハッキリとした事実だった。いつかは自分の意思で旅を止めるのだ。そしてアジアを西進してきた旅行者が旅を終える場所として、イスタンブール以上にふさわしい場所はそんなに多くはない。
しかし自分がそう考える一方で、心のなかには「まだ旅を続けたい」と思う気持ちがあるのもまた事実であった。アジア以外の他の国々も見てみたい ― そういう想いも確かに僕の中にはあった。ようするに僕は相反する二つの考えを抱え、そして結局どちらを選ぶこともできないままに、イスタンブールに到着してしまったのである。
そしてイスタンブールで出会った旅行者からハナシを聞き、国際学生証が旅をする上で非常に役立つことはよくわかった。しかしそれが今後の僕に必要なものかどうかは、自分の旅をどうするのかに左右される。ようするに
「旅を続けるならば国際学生証を買えばいいし、旅を終わりにするならその必要はない。」
ということになる。逆の言い方をすれば、イスタンブールが旅の中継地点になるのか終着点になってしまうのかは、国際学生証を購入するか否かにかかっているのだった。少しばかり大げさな表現かもしれないけれど。
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